名掛丁商店街とは

伊達政宗公の時代から続く名掛丁のあゆみ

名掛丁のいわれは、遠く江戸時代にまで遡ります。
伊達藩には、藩主が勇敢な侍を名指しで選抜する「御名懸組」という一団が存在しました。
慶長5年(1600年)岩出山から仙台へ移った政宗公は、仙台城大手門に通じる街路であり、城下防衛の重要な拠点に、この御名懸組の組士達の屋敷を新伝馬町(現在のクリスロード)の西から東は東七番丁・車町までの場所に置きました。
その昔、町の名前は侍の住む屋敷で構成される「丁」と、職人や商人などで構成される「町」に区別されていたため、御名懸組の組士屋敷が置かれた侍町は「名懸丁」と呼ばれ、以降、現在まで約400年もの間、その名を受け継いでいるのが名掛丁です。


江戸時代の仙台藩の武士身分では、上級の「門閥七等」の下に大番士、組士(御名懸組)、卒の三等があったが、徒歩侍の組士(御名懸組)が住んだ町であることから「名懸丁」と呼ばれました。 名懸丁は西の新伝馬町から東の東七番丁車町まで続く細長い町で、石巻・松島・塩竈という石巻街道沿いの港から仙台城下町へ入る際に通らなくてはならず、名懸丁の東の二十人町 および鉄砲町(鉄砲足軽138人がおかれた)と合わせて、城下の東の守りでした。




ハピナ名掛丁とクリスロードの境目を知っていましたか?


アーケードで繋がれた仙台市中心部の6商店街。各商店街は大きな通りを堺に別れているように思えますが、クリスロード商店街とハピナ名掛丁商店街の街の境目は、東五番丁通り側からアーケードを西に53.6m入ったところ。

「こんなところになぜ?」と思う方も多いはず。

そのワケは、藩祖伊達政宗公が建設した生活用水「四ツ谷用水」がこの場所を流れていて、この水路が街境だったから。
今もこの境目には水の流れをモチーフにしたデザインが描かれ、藩政時代から続く仙台の街の歴史を感じつことができるのです。




あの島崎藤村が「名掛丁」に!

「名掛丁」は、もともと現在のハピナ名掛丁から東の車町まで続く細長い町でした。
1887年(明治20年)鉄道の開通により街が二分され、駅西側は地名が変わりましたが、駅東側には現在も「名掛丁」の地名が残っています。
名掛丁は1896年(明治29年)に東北学院の英語教師として仙台に赴任した若き日の島崎藤村が「まだあげ初めし前髪の・・」で有名な「初恋」が収められた「若菜集」の大部分を書き上げたといわれている下宿「三浦屋」があった場所としても知られ、その跡地は現在「名掛丁藤村広場」となっています。


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